
Glenn Williams
MUSIC WRITER IN JAPAN
STEVE MANN
20th June 2016
マイケル・シェンカー・フェスト
Q:スウェーデンはいかがですか?
スティーヴ・マン(以下SM):最高だよ!マイケルとプレイして25年くらいになると思うんだけど、また彼とステージに立てるなんて素晴らしいよ。もう離れたくないくらいさ(笑)。前はクリス・グレン、テッド・マッケンナと一緒だった。とてもいい経験になったよ。ロビン(・マッコーリー)もいたね。また彼とやれるなんて最高だし、25年ツアーを続けているような感じだね。
Q:電話がかかってきた時は驚いたでしょう?
SM:そりゃあ、もう!これが最後の望みだったと言ってもいいくらいさ。マイケルがすべてで、テンプル・オブ・ロックは彼の意のままのメンバーだと感じるね。まさか僕に電話が来るとは思ってもみなかったよ。近年はいろいろなバンドを渡り歩いていたけど、もし戻れるものならMSGが理想だなと思っていたんだ。
Q:去年の5月の日本で既にマイケルに種が蒔かれていたかもしれないんです。スペシャル・ゲストとしてグラハム・ボネット・バンドのショーに飛入りしたんですよ。グラハムが彼のギターをバックに歌ったんです。
SM:なるほど。ここ数年、ロビンと連絡を取り合ってきたんだけど、彼の様子がおかしかったんだよね。僕らは「マッコーリー・シェンカーが再結成したいいと思わないか?」と言い合っていたんだけど、ロビンはいつも言葉を濁していたんだ。「ああ・・・どうなるか分からないなぁ。」ってね。彼は僕には分からない事の成り行きを知っていたんだろうね。マイケルが彼に話していたんじゃないかな。分からないけど。でも凄いサプライズだったよ。
Q:我々ファンにとっては、またあなたに会えたのも嬉しかったんですよ。
SM:素晴らしいよね。再結成というと、えてしてギャラのことがちらついたりするものだけど、僕らの場合はそれが理由じゃないんだ。僕らも成長したしね。かつては大酒も飲んだものだけど、僕らは昔を懐かしがるような人間じゃないんだ。一緒に戻って来れて人間的に丸くなったし、人生の楽しみ方というものを学びもした。ステージでのバンドのグルーヴは凄いよ。心から楽しんでいるんだ。
Q:マイケルのキャリアに貢献したあなたとしては、認識を新たにしたり、学び直したこととかはありましたか?それともただ身を任せるのみだったのでしょうか?痺れるような部分はまだありましたか?
SM:驚いたね。一度あの味を知ってしまうと、生涯忘れないものなんだ。マッコーリー・シェンカー・グループで僕たちがプレイしていた曲なんて、2分でまたモノにしたよ。僕のスタジオに全部持ち込んで、ギターでおさらいしたら、ほとんどの曲がすぐに甦ってきたよ。一度プレイしただけで、もう取り戻せたんだ。「Desert Song」や「Dancer」のようなグラハムぽい新曲には馴染みはなかったから、ちょっと練習して、キーボードでプログラミングしたりしたけど、ほとんどの曲をすぐに把握できたよ。
Q:あなたは87年にはマイケルと日本には来れなかったのですね。
SM:そうだったんだ。86年からバンドに居たけど、親父の具合が悪くなって、付き添わなきゃならなかったんだ。バンドを脱退したのも残念だったけど、メンバーはちゃんと理解してくれたよ。一年くらいはミッチ・ペリーとやったみたいだね。それで親父が亡くなって、またマイケルのところに戻った。そして88年に再加入したんだ。その前にバンドはジャパン・ツアーをしていたから、僕は参加できなかったというわけさ。
Q:日本には一度も来たことはないのですか?
SM:今回が初めてなんだ。待ちくたびれたよ!(笑)。日本のことはいろいろ聞かされていたからね。
Q:日本をいろいろ観て回るのに滞在を延長してはどうですか?
SM:いや、すぐに戻らなきゃならないんだよ。スタジオを押さえているから。週に3日入ることになっているんだ。でもバンド・メンバーは日本の文化や名所を満喫すると思うよ。
初期のキャリア
Q:この世界に入ろうというきっかけは何だったのですか?
SM:僕はエリック・クラプトンの大ファンだったんだ。僕の兄がデレク&ザ・ドミノスのアルバムを持っていて、裏ジャケットのサンバーストのフェンダー・ストラトの写真に魅せられたんだよ。なぜプロになろうと思ったのかは自分でも分からないな。ともかく、地元サウスオールの家の近所にあったバーゲン店に行くと、『LAYLA』とまったく同じサンバーストのストラトが置いてあったというわけさ。15歳の時だったな。それからずるずるという具合さ(笑)。で、僕はそのギターを買ったんだけど、よく調べたら同じギターというわけではなかったんだ。でもエレクトリック・ギターには惚れ込んだよ。1日8時間練習した。学校の勉強なんてそっちのけさ。良い子のみんなにはおススメできないけどね(笑)。まずは、学校の勉強だ。それからギターの練習。2、3ヶ月やってみて、これが自分のやりたいことだと確信したんだ。後悔はしていないよ。
Q:UFOのツアーで初めてあなたを観た時にはライアーに在籍されていました。1979年2月5日のレスター・ディモントフォート・ホールでした。サポート・バンドの最初の2曲を今でもはっきり憶えていますよ。私はそこにいたんです。そのバンドに魅力を感じなかったら、バーにでもしけ込んでいたでしょうね。でもライアーのステージを全部観たんです。いいバンドだと思いましたよ。スタジオよりもライブで映えるバンドだと思いました。
SM:そうだね。
Q:ライアーが最初のプロのバンドだったのですか?
SM:そうだったと思う。週40ポンドのギャラをもらったけど、僕にしてみれば「楽しめてお金がもらえた」仕事だった。うまくやっていくコツなんかを学べたし、いい経験だった。バンドとしてやっていて、マネージメントがうまくいかなかったら最悪だよね。せっかくいい曲が書けて、やる気満々のミュージシャンが三人いたっていうのにね。いい曲が書けた時点で半分は勝負に勝っている。でもあとの半分はそれをレコーディングして、しっかりプロデュースしなきゃならない。でも残念ながらライアーはそこまで行けなかったんだ。バンドのコンセプトは、クイーンのようなハーモニーを駆使するステイタス・クォーという感じだった。ボーカリストは強力で、ライブで映えるバンドだったんだ。ステージでは思うがままに演奏したよ。3人、4人がコーラス・ボーカルをとってね。リード・ボーカルのデイヴ・バートンも素晴らしかったんだ。でもさっき言ったような状況に陥ってしまって、ロクなプロモーションもしてもらえず、マネージメントがまったく信用できなくなってしまったんだ。アメリカのベアーズヴィルとは、ぐだぐだ揉めた挙句に契約を破棄して解散した。ロック史にはよくある話だよ。でもライアーはいいバンドだったんだ。ツキがなくて、プロモーションもしてもらえなかったけどね。
Q:その後はどうしていたのですか?
SM:ホークウィンドでキーボードを弾いていたスティーヴン・スウィンデルという男としばらく活動していた。3ヶ月ほど彼とやって、それからライオンハートに移行したんだ。
Q:私は81年のレディング・ロック・フェスティバルであなたのライオンハートを観ているんですよ。85年にはECTで、劇的にサウンドが変わったバンドも観ました。バンドの進化や変遷を説明していただけますか?後付けだった部分もあったのでしょうか?
SM:タイガース・オブ・パンタンを脱退したばかりのジェス・コックスから電話をもらったんだ。デニス・ストラットン(アイアン・メイデン)と何かを始めると言っていた。それに興味を持ち、一緒にやってみようと思ったんだ。三人が集まったところにロッキー・ニュートン(ワイルドファイヤー)とフランク・ヌーン(デフ・レパード)が加わった。最初のNWOBHMのスーパーグループとして当時、大手のロック・メディアだったサウンズに掲載されたよ。だから僕たちは、NWOBHMブームの最初から最後までを見てきたと言えるね。明らかにデニスは奏でるリフにその影響を受けていたし、メンバー全員があのブームを歓迎していたから、バンドのサウンドもおのずとブリティッシュ・へヴィ・メタル風になったよね。レコード会社と契約したかったけど、その時には実現しなかった。僕らはジャーニーやカンサス、フォリナー、トトなどと同じようなジャンルに見られていたんだ。僕らは、サクソンのマネージャーで、一時期イングウェイ・マルムスティーンのマネージャーもしていたこともあるナイジェル・トーマスという男を見つけたんだけど、彼はとにかくアメリカで売れることばかりにやっきになってて、まったく僕らの意思を尊重してくれなかった。スタジオに入って、デモテープを作れ。そればかり言ってた。さっき言ったような、大衆受けするアメリカのバンドみたいなサウンドでね。僕らはCBSと契約を締結し、REOスピードワゴンのプロデューサー、ケヴィン・ビーミッシュとアルバム『Hot Tonight』を作った。彼は優秀なプロデューサーだったけど、バンドに合ってたかどうかは分からないな。音楽のクオリティよりも、レコードを作って出したいという欲望の方が少し勝っていたように思うね。もっとクオリティを気にしていればよかったと思う。アルバムのA面B面で音楽性が異なっていたんだ。A面はいかにもブリティッシュ・へヴィメタルというサウンドだったけど、B面はCBSと契約してLAへ行って、アメリカの売れ線に迎合したアルバムやビデオを作るようにお膳立てされたサウンドになっていた。アルバムの出来は気に入っていたけど、本当にやりたいと思っていた音楽じゃなかったんだ。僕らの個性ってものがどこかに行ってしまった感じで失望したよ。ブリティッシュ・へヴィメタルを演奏するのは楽しかったけど、アメリカの大衆受けするロックのためにアルバム・ジャケットに4人が白のスーツ姿で収まったことはバンド内に軋轢を生んだよ。あれが解散への第一歩だったと思うね。
Q:そんなこともありつつ、あなたが仕掛人だと思えるタイタンがありましたね。そのいきさつはどういうことだったのでしょうか?あなたはエグゼクティヴ・コンサルタントとクレジットされていましたが。
SM:(笑)。ああ!友だちの友だちは友だちで、みたいな感じで繋がってケヴ・リドルズ(タイタンのベーシスト)と知り合ったんだ。マーキーやシップス(マーキーの通り沿いにオープンしていたパブ)に出演しているバンド同士みたいな感じさ。当時はみんながファミリーみたいな付き合いだったんだ。彼らとスタジオに入ってレコーディングしたものがアルバム『Rough Justice』になっていったり、その直後にギタリストのゲイリー・オーウェンズが抜けたりとか。それからエンジェルウィッチのメンバー二人から新しいバンドを組むんだという電話をもらい、興味を抱いて彼らに合流することにしたんだ。バタシーにあるランポート・スタジオに入った。ここはザ・フーのスタジオだよ。彼らが曲を演奏してくれて、僕はそれをすぐに気に入ったんだ。今日までで、僕が絡んだアルバムではこの時のが最高だと思っているよ。あの当時のバンドの最高の部分を捉えていたと思うからね。「Blind Men and Fools」の序盤なんかはゴシックの影響を受けていて、それから20年続いたゴシック・メタルの先駆けになったと思う。とにかく僕はこれがやりたかったんだ。すべてのプロジェクトに絡んだし、リズム・パートもソロも満足のいくものだった。ゲイリーのソロが残されたのかどうかは分からないけど、後任のメンバーがソロをやり直していたのは確かだった。それもとてもうまくいったよ。ウィル・リード・ディックが抜群のミックスを施してくれたし、心底素晴らしいアルバムだと思っているんだ。まだライオンハートに在籍していた時期だったけどね。あの頃はもうあのバンドでは自分が何をやってるのか訳が分からなくなっていた。あの短期間によく2つのバンドが掛け持ちできたと思うよ。タイタンはタイガース・オブ・パンタンのサポートでツアーを回ったんだ。ちょっと劇場の出し物みたいに毎晩ダンスを踊るカーマインという素敵な女の子がいたね。でも不運なことに、アルバムが出る直前にレコード会社のカムフラージュが倒産したんだ。そこから数年はやることがなくてぶらぶらしていた。あれは本当に満足できる仕事だったからね。タイタンは落ちぶれて、ライオンハートが時流に乗ったよ。
最近の活動
Q:あなたはNWOBHM時代の生き残りの一人です。あなたと同時代の仲間が消えていっている中で、自分のスタジオを持って、プロデュースも手掛け、演奏もしています。
SM:ああ、どうもありがとう。僕は音楽なしでは生きていけないからね。何かしらの形で音楽に関わっていないとね。終の棲家と決めたハノーヴァーに24トラック・マシーン搭載のスタジオを持っているんだ。しばらくバンド活動がない時には、ここに篭って作業ができるようにね。90年代には数多くのバンドのプロデュースをしたから、そこそこ知られる存在になれたことはラッキーだった。シュトゥットガルトのレターXもいいバンドだったし、スコーピオンズともアルバム『Crazy World』(1990)のデモ制作の時にエンジニアとして参加した。僕は音楽のいろいろな面が好きなんだ。自分を単なるギタリストとは思っていないし、いろいろなことができるミュージシャンだと思っているんだ。キーボードの新しいサウンドを開拓したり、シンセのプログラミングをしたり、ギターのサウンド作りやオーケストラのアレンジもする。クラシックもたくさん聴いているよ。バッハはいつの時代も最高の作曲家だね。クラシック・メタルというジャンルも出てきている。これが最高なんだ!こういう流れは80年代、90年代と僕らがやってきたことから自然に発展してきた結果なんだ。今、また音楽に70年代や80年代の時のような興奮をもって取り組んでいる。ウィズイン・テンプテーションを何時間でも聴けるよ。彼らの曲は構成がきちんとしているんだ。シャロン・デン・アデルはロック界でも有数の美声の持ち主だね。表現力も素晴らしいし、サウンドも抜群だ。もし僕がメタルをプロデュースするなら、ウィズイン・テンプテーションを想定してやるだろうね。
Q:興味を持たれると思うのでこの質問をしますね。数年前にアルバート・リーにインタビューした時、穏やかで控えめな人だったんです。彼は自分がいかに高く評価されているかということを自覚してなかったんですよ。アルバム『Highwayman』でプレイしてプロデュースしていることについて聞かせてもらえますか?
SM:君の言う通りだよ。彼はある意味マイケルに似たところがあるね。人と話す時はいたって普通の人なんだ。普通の生活をし、穏やかで、自分に特別な才能があるなんて思っちゃいない。でも一旦ギターを手にした時は別の彼が現われるんだ。穏やかさは情熱に取って代わられる。見ていて惚れ惚れするよ。「Shakin’ Stevens」では70年代か80年代のままのプレイをしてくれている。レコードでこんな素晴らしいプレイを聴いたら、同じ人が弾いているのかと思ってしまうだろうけど、多くの場合、アルバートも同じことなんだろうと思うね。
Q:60年代のビッグ・ジム・サリヴァンも同じだったでしょうね。
SM:ああ、80年代のスティーヴ・ルカサーもそうだったよ。
Q:あなたのことに戻りますが、現代のスタジオの最新テクノロジーについてはどう思いますか?付いていってますか?
SM:不幸にも僕は技術オタクなんだ。必ずしもいいことではないけどね。音楽の焦点を絞るのにはテクノロジーを駆使すれば簡単なんだ。だから僕はある意味、テクノロジーは惜しみなく使う。この技術が必要だと思えば、買って揃えるよ。一例を挙げれば、イースト/ウェスト・シンフォニー・オーケストラのようなものだね。とてつもない効果を与えてくれるから、いつも使っているよ。あまりのめり込まないように自制しなきゃいけないんだけど、買ってしまうんだな(笑)。でもテクノロジーのおかげで僕の良いところが引き出せるわけじゃない。物事を進めていく上で論理的技術的な部分も必要だというだけさ。悲しいことに僕はマニュアル人間なんだ。新しい機材を買った日には、部屋に篭ってマニュアルを読み耽るんだ(笑)。
Q:スティーヴ、今日はどうもありがとうございました。日本でお会いできることを楽しみにしています。その時はビールで乾杯しましょう。
SM:ああ、絶対だぜ!
