JULIA BAIRD    

2016年6月

リバプールの文化や観光名所をPRし、ビートルズの1966年の来日から数えて50周年を祝うため、目玉となる人物で構成された代表団がリバプールから来日した。この代表団が参加したイベントで最大の目玉はジョン・レノンの異母兄妹であるジュリア・ベアードであった。イベントに参加した観衆からは3つの質問が寄せられた。

Q:巷には、ビートルズやジョンの若い頃に関する映像や書籍が溢れていますが、その真偽を含み、あなたが敢えてコメントしたことというのはありますか?

ジュリア:真実を描いているものはほとんどないわね。よく良心の呵責に耐えられると思うのですが、例えば『Nowhere Boy』という映画を例に挙げましょうか。これなんて、むしろ滑稽なレベルなんですよ。完全に幻想と言ってもいいですね。ポールでさえ、この映画の監督サム・テイラー・ウッドに言ったのですよ。「サム、あんなことは何もなかったよ。」って。すると彼女は「誰にそれが分かりますか?」って言ったのですよ。ここ日本では余計にそうでしょうね。イギリスでは私自身、何も映画は観ていないのですが、インターネットによれば、そうした映画は私の著書を基にしているとのことなんです。でも私はそんな事実は書いていません。出版元が私に実際にそうした映画を観てくるように言って、観たのですが、目を覆うばかりでした。まったく事実無根のことが描かれていたからです。途中で観るのを止めましたが、なすすべはありませんでした。私の著書を基にしたと言っていますが、映画のような事柄は一切書いていないのです。書けるわけもありません。彼らは事実を知りようもなかったのですから、もうそんな映画は観る気にもなりません。ジョンに会ったこともない関係者が巷にはたくさんおられるようで。リバプールに行ったことさえない関係者もいるくらいなんですよ。ただ映画を作る資金があって、一儲けしようかというつもりなのでしょうね。私たちにはもうどうしようもありませんが。

 

Q:あまりプライベートに立ち入る気はないのですが、あなたとジョンが最後に会った時のことをお話しいただけますか?

ジュリア:70年代にはよく会って話していたんですよ。手紙のやり取りもよくしましたし、電話でも話しました。彼が69年に渡米してきた時には、しばらくアメリカに滞在したんです。悲しいことに、彼の26歳以降に会った家族は誰もいなかったのですよ。まだその頃の彼はグリーンカード(米永住権)を取得していませんでした。グリーンカードを取得してからは日本に半年間滞在したりして、私たちの所にはちょっと立ち寄る程度だったので、家族の誰も彼には会えなかったのですが、血の繋がった家族の一人として、いつも彼のことを見ていましたよ。

 

Q:ビートルズの中ではジョンがいつも周りを笑わせていましたが、彼にはそういうムードメーカーみたいなところがあったのですか?

ジュリア:ユーモアのセンスの塊でしたね。それも、とてもブラックな。私の母はドライな面と情に厚い面の両方がありますが、リバプールの人はだいたいブラックなユーモアを好みますよ。自分たちの気持ちを短い言葉でストレートに表現するんです。ここがリバプールじゃないことを肝に銘じないといけませんね。リバプールのことを尋ねられたら、いつもの調子で返してしまいそうですから。リバプール以外の出身の人なら、「あああ、こんなこと訊かなきゃよかった」って思うでしょうから。辛辣なんですよ。皮肉っぽいんです。ジョンもそうだったでしょう?