COLIN HART
22nd October 2015
コリン・ハートは、ディープ・パープルとレインボーのツアー責任者だった人である。彼は、リッチー・ブラックモア個人を除き、バンド・メンバーを内部から見てきた唯一の人だ。このたび、彼はその思い出を面白い本『A Hart Life』としてまとめ、出版した。この穏やかに行なわれたインタビューで、彼は2つのビッグバンドとの生活の詳細を明かしてくれている。
ギラン時代のパープル その1
Q:あなたは初期のパープルの名曲群が生まれる過程も見ていたのですか?
コリー・ハート(以下CH):ああ、彼らが「Smoke On The Water」を作った時には現場にいたよ。「Woman From Tokyo」の時もね。リフを考えるのは、たいていリッチーだった。それから全員が参加していったんだ。基本的にはそんな具合だった。ギランとグローヴァーがメロディと詞を担当していたね。
Q:あなたの本では「Smoke On The Water」のことがかなり詳細に語られていますが、例えば「Woman From Tokyo」などもかなり早くに出来上がったのですか?
CH:あの曲は、ローリング・ストーンズのモービル・ユニットを使ってのローマでのセッションで、2曲目にレコーディングしたんだ。これと「Painted Horse」をね。当時はかなり環境が乱雑だったんだ。スタジオがそれほど完璧な設備ではなかったからね。うまくいってなかったんだ。だからかえって早く仕上がったんだと思うけどね(笑)。同じように、何曲か仕上がった。面白い曲もあったよ。ジョン・ロードがカセットに落としていたと思うんだけど、それからどうなったかは知らないな。ピーター・クックとダドリー・ムーアみたいな馬鹿げた曲だったよ(笑)。
Q:そのセッション以外で、あの時代にレコーディングされてリリースされた曲はあったのでしょうか?
CH:2、3曲はあったと思うけどね。でもどれだったかは思い出せないな。
Q:いい曲でしたか?
CH:うん、よかったよ。クオリティは高かった。誰かがどうかしたかもしれないな。例えばロジャー・グローヴァーがそれらを手掛けたとすれば、テープの所在は分からないよ。マーティン・バーチが保管している可能性はあるけど、マーティンは誰にもそれを言ったことがない。彼はおしゃべりじゃないからね。それからある日、フィル・ライノット作の曲が上がってきたんだ。正直なところ、その曲の方に早く取り掛かったんだよ。
Q:あなたはその現場におられたのですか?
CH:ああ、あのセッションに立ち会っていた。凄かったよ!
Q:バンドとしては現実的なことだったのですか?
CH:リッチーの思いつきだったんだ。どこまで彼が真剣だったかは分からないけどね。でも彼とイアン・ペイスは楽しんでいたよ。そのアイデアを喜んで、いいプレイをしていた。でもみんなのスケジュールが合わなかったから、計画倒れになってしまった。「ちょっとこれ、一緒にやってみようよ」的なノリだけだったんだ。
Q:私見ですが、パープルではいつもリッチーとペイスがバンドを引っ張っていたと思うんです。ロジャーとジョンはどっしり背後に構えているというか・・・
CH:そうだよ。
Q:フィル。ライノットも凄いベーシストですが、ちょっとその件はフライングのような気がしますね。
CH:そうだね。でも凄くよかったんだよ。2曲やったと思うけど、素晴らしかった。フィルは凄かったよ。
Q:歌詞違いの「Highway Star」を演奏した「ビートクラブ」のテイクがありますよね?あれはどうしてそうなったのですか?
CH:(笑)ちゃんと思い出すから待ってよ!あのビデオを観たけど、あれはあの曲をスタジオでレコーディングする前に出演したものだった。だから仮の歌詞だったか、ギランがまだ歌詞を憶えていなかったか、だね。はっきりとは憶えていないんだけど、あの彼の歌を聴いていると、頭に思い浮かんだまま歌っているような感じだね。でもレコーディング前にテレビでやるなんて、奇妙なことだよね。
Q:当時、日記をつけておられましたか?
CH:いいや。いざ本を書くとなって、こういう事をすべて整理しなきゃならなくなった。難しかったのは、いろいろな事を時系列に整理することだった。共著者のディック・アリックスと二人で調査して、事実を確認していった。発行者が誤記した箇所がいくつかあったけど、それも訂正した。いくつかのツアー秘話も加えたよ(笑)。大変だったけど、ほとんどの事を忘れていたからね。
Q:1972年のアメリカン・ツアーでは、リッチーの代わりにアル・クーパーをギターで入れるという話がありましたよね(リッチーは個人契約だったため)。そんなとんでもない話はどこから出てきたのですか?
CH:僕の記憶が正しければ、僕たちのツアーを仕切っていた代理人がアル・クーパーと同じだったからだと思うんだ。彼はどうしてもツアーをやりたいと考えていた。それで「アル、手伝ってくれないか?ブラックモアの代わりが必要なんだ。」ということになったんだと思うね。でももちろん、アル・クーパーはキーボード・プレイヤーだからね(笑)。ギターを弾きはするけど。彼はやって来たけど、ツアーに参加する意志はまったくなかったよ。彼自身も真剣には考えていなかったと思う。パープルのメンバーもね。こんな仕事受けるはずがないよ。リッチーのソロのところになったら、彼の動きが止まったものね。それで仕方なくジョンがソロを引き継いだんだ(笑)。
Q:マネージャーや代理人、バンドがツアーを続けたいと思ったのは分かりますが、いくら何でもアル・クーパーとはね?!
CH:言ったように、アルのマネージャーの思いつきだったんだ。結局ツアーはキャンセルされたよ。それから僕たちは、ランディ・カリフォルニアのツアーを手がけた。カナダで1回だけのね。ケベック州かどこかだったと思う。オーディエンスはみんな「誰だ、こいつ?!」って感じだったよ。
Q:ランディ・カリフォルニアですか。彼もギタリストでしたけどね。その当時なら、他にもいくらでも候補がいたんじゃないですか?例えばスティーヴ・マリオットとか。
CH:それはいいアイデアだったかもね。おぉ、スティーヴ・マリオットか!
Q:続けましょうか。アルバム『Who Do We Think We Are』をローマでレコーディングした際には、モービル・ユニットが壊れたそうですね。(ローリング・ストーンズのモービル・ユニットは大き過ぎて、別荘の小道に入ることができなかった。そのため、別荘から遠く離れた所に停めざるを得なかったのだった)
CH:ジョン・コレッタという有能な奴がいたんだ。彼が丘の上の素晴らしい別荘を見つけてきたんだ。彼が寝室まで下見して、「ここがいい!」と決めたんだ。でも彼は一つミスした。自分のロールス・ロイスが小道を通ることは確認したんだが、モービル・ユニットが通らないことは見落としたんだ。
Q:別荘からモービルまで、はるばるケーブルを延ばさなきゃならなかったのですか?
CH:僕はやらなかったけど、モービルの技師だったジェレミー・ジーとニック・ワタートンがやってくれた。ケーブルとそれを収納するボックスを作るのに、徹夜していたよ。
Q:100フィートのマイク用ケーブルですよね?
CH:ああ、そうだ。道路から小道を通ってケーブルを延ばし、繋いだんだ。モービル以外の車は停めさせないようにしてね。だから関係者はみんなその外に車を停めたんだ。どうしようもない状況だったよ。だからそんなにスムーズには運ばなかったんだ。プレイバックするのに聴いていると、「いいか、ハイキング・ブーツを穿けよ。」って会話が入ってた。道路を練り歩かなきゃならなかったからね(笑)。
Q:リッチーとギランの不協和音は、いわゆるお決まりの「音楽的方向性の違い」というものか、それとももっと根深いものだったのでしょうか?
CH:個人的な関係の破綻だった。リッチーは地団駄踏んで、「僕はこうしたいんだ!」なんて叫んでいるし、ギランは「いいよ、おまえがそうするんなら、俺は違う風にやるから。」なんて返す。リッチーの地団駄がより激しくなったよ。そんな感じだった。「分かった、おまえがやらないなら、僕もやらない。おまえが自分だけの楽屋にするなら、僕もそうする。」なんてね(笑)。そんなクレイジーな感じだった。音楽的には二人とも同じ方向を向いていたと思うよ。カヴァーデイル / ヒューズほど無茶苦茶な音楽性じゃなかった。バンドで二人のメンバーがさしたる理由もなくこんな状態になってしまったら、もう打つ手はないよ。
Q:私も経験ありますよ。私の場合は、ガールズ・バンドでしたけど。パープルとレインボーとツアーした時のガールズ・スクールのスタッフだったんです。もう30年前のことですが、二人のメンバーがいがみ合ってました。
CH:クレイジーだろ?もちろんギランはいつもマネージメントに不平を漏らしていたし、まったく協力的じゃなかった。リッチーは、当時は別に不平は言ってなかった。でも彼は彼で別のことで悩ませていたんだ。
Q:ジョン・コレッタのマネージメントを受けた人、数人と話したことがあるのですが、彼については全員がいいことを言っていませんでした。彼を買っていた理由は何ですか?
CH:彼はタフなビジネスマンだった。いつも最良の決定をしていたとは思わないけどね。彼とトニー・エドワーズの決定は、すべて「いくら儲かるか?」、「いつまでこのバンドを引っ張るか?」を尺度にしていたんだ。ここがギランの不平の源だよ。彼らはバンドが疲弊してしまうまでこき使ったんだ。バンドが具合悪くなってもコレッタはやらせ続けた。さすがに今ではこんなやり方は通じないと思うけどね。
Q:あなたはすごく穏やかな方に見えますが、あの時代のハチャメチャな状況をどのように仕切っておられたんでしょうか?
CH:(笑)いろいろ大変なこともあったけど、僕がやっていたのは、状況をしっかり見極めることだったんだ。ブルース・ペインと僕は、リッチーがちゃんとやってくれるように努めていた。リッチーは事態がうまく運んでいることを嫌がる奴でね。事がスムーズにいっていると、彼は本当にイライラするんだよ。だからブルースと僕が彼の近くにいる時には、いつもまずい状況になったように装っていたんだ。「おぉ、ゴッド!一体どうしたらいいんだ?」って言ってね。するとリッチーはにやっと笑って、どこかに行ってしまうんだよ。状況が無茶苦茶になっていると機嫌がいいんだよ。よくこの手を使ったよ(笑)。トータルで考えれば、楽しかったし、うまくいった。リッチーは悪い奴じゃないよ。コンサートではまったく調子の出なかった彼が、コンサート後には全然違う人間みたいだったからね。ホテルに帰ったら、最高の奴に変わってた。彼とはバーで何時間も話したこともあったけど、翌日には何事もなかったようにお互いケロリとしていたものね(笑)。
Q:以前に、リッチーはあなたのご両親にも優しかったとおっしゃっていましたね。
CH:そうなんだ、彼は僕の両親にもよくしてくれた。やって来て、バーやレストランに招待してくれてね。何時間も相手をしてくれたんだ。いい奴なんだよ。
Q:リッチーのキャリアはよく語られていますが、ウェストン‐スーパー‐メアで育った頃のことは一切話したがりません。その頃のことをあなたに話したことはありますか?
CH:いや、彼は私生活のことは一切話さなかったな。弟がいるらしいんだけど、お互いに好きにやってて、うまくいってるらしい。彼の両親がロンドンかどこかの公演を観に来たことがあったんだけど、自分の両親よりも僕の両親に優しくしてくれたんだ。奇妙だったよ。
Q:ここで精神医学のことを云々するつもりはないのですが、あなたとご両親に彼は何かを感じたのではないでしょうか?自分の両親にないようなものを。
CH:その可能性はあるね。でも彼は何も言わないからね。
カヴァーデイル時代のパープル
Q:あなたは本に、デンマークのアールスでの「バーン・ツアー」の初日公演のことを書いておられますが、あの公演はキャンセルされています。キャンセルの理由は何だったのでしょうか?
CH:コペンハーゲンからスタートしたことは憶えているんだけどね。でもアールスがキャンセルされたことは憶えていないな。機材を積んだトラックが到着しなかったとか、そんなことだったんじゃないかな。
Q:あなたがあの公演の段取りをされたのですか?
CH:いやー、よく憶えていないんだよ。そこにいたのかどうかさえ、ね。調べてみるよ。でも分かる人はいないだろうなぁ。
Q:その感じは分かりますよ。私が仕事したバンドの中で、ロック・ゴッデスというバンドがサード・アルバムをレコーディングしたんですが、リリースされなかったんです。スタジオに3週間もいたんですが、ビールをずっと飲んでたことくらいしか憶えてないんです。
CH:(笑)僕のクラブへようこそ!君は入会資格ありだよ。
Q:カヴァーデイルはいつ頃、エゴを表わし始めたのですか?パープルの前か後か?
CH:後だったと思うね。彼は最初から威圧されていたね。ホワイトスネイクの頃まではいい奴だったんだ。彼がホワイトスネイクにいた頃に事件があったんだ。ニューヨークのポーキープシーだったと思う。ジョンと僕は、何かの理由でそこには泊まらなかったんだ。それで彼の様子をホテルに見に行った。フロントから内線を入れると、彼じゃない奴が答えたんだ。ジョンは「ほっとけ!」って言ったんだけど、僕は「いや、様子を見てくる。」と言ったんだ。すると、スイート・ルームから出てきたホテル側のスタッフが言うんだよ。「カヴァーデイル様はあなたがたがお会いになりたいなら、会うとおっしゃってますが。」ってね。
Q:へぇー、何という・・・・
CH:まったくね。その頃には、彼は本当に尊大な人間になってしまっていた。もう北東部のレッドカー訛りなんてなかったからね。彼ったら、(アクセントを真似て)「おぉ、おはよう。調子はどうなの?」って。僕たちをスイート・ルームに呼び込んで、お茶を出してくれたよ。あまりにうぬぼれが酷くて、一時もそこにはいたくなかったよ。早くまともな人間と会いたかった(笑)。今でも彼のインタビューを聞いたら、あのアクセントのままだったよ。
Q:パープルの新作はどう思われますか?
CH:キーボードが入っていないことに驚いていたところだよ。バーニー・マースデンはカヴァーデイルに酷い扱いを受けたものさ。彼は一生、カヴァーデイルのことはよく思わないだろうね。カヴァーデイルは、両手に女をはべらせて、バーにいたらしい。バーニーが入っていくと、「彼は俺の親父なんだ。」と言ったそうだ(笑)。よくカヴァーデイルにいじられていたよ。
Q:話を続けましょう。ELOの音響スタッフについてのコメントを訂正する気はありますか?78年の顰蹙を買った「Out Of The Blue」ツアー以前からテープを流していたということについて。
CH:いいや、ないよ。難しい点は、ストリングスをどうするかという点だったんだ。バーカス・ベリーがバイオリンなんかを担当していたと思うけど、こうした弦楽器の音をドラム、ベース、ギターに負けないようにどう増幅させるかということだった。音響マンは毎晩苦労したと思うよ。いつもチェロやバイオリンのことを考えていた。後年に、新しいサウンド・システムやエレクトリック・バイオリンが出てきてから、割と楽になったんだ。
Q:ジョン・ロードはアルバム『Come Taste The Band』では、1曲しかソングライターとしてクレジットされていません。この頃までに彼は興味を失っていたのでしょうか?
CH:その頃は、僕はあまり関わっていなかったんだ。特にあのアルバムには、ね。当時、当たり前になっていたのは、リッチーがクレジットされていたということだ。彼がリフを考えて、曲全体の構成を書いていたんだ。カヴァーデイルやグレン・ヒューズも詞やメロディを書いていたけどね。第2期パープルも同じだった。クレジットは、ブラックモア / グローヴァー / ギランだった。イアン・ペイスもロードも均等に貢献していたんだけど、リッチーはそうは思っていなかった。だからそれがいつも論争の種になっていたよ。それがパープルにはついて回っていたんだ。
レインボー
Q:リッチーが、レインボーのあの虹の照明セットをクレーン作業者に命じて大西洋のど真ん中に沈めたというのは嘘ですよね?
CH:嘘だよ。何度もそんな話を聞いたけど、そのたびに笑い飛ばしてきた。ここ何年もの間は、ニューヨークのクイーンズにあるシー・ファクターという倉庫に保管されているよ。シー・ファクターがあのモンスターみたいな設備を造ったんだ。ジョンという奴が毎晩、うまく作動するように苦労してた。最後はメキシコのディスコで使われて、それっきりだね。どこにあるかは確認していないけど、そういう話だよ。海には捨てていないよ。その方が面白い話だけどね!
Q:「Straight Between The Eyes」ツアーは、なぜイギリスでは行なわれなかったのですか?
CH:多くのファンを嘆かせたのは確かだったけど、実際の理由は憶えていないなぁ。代理人とマネージメント側から日程をもらって、仕事するだけだったからね。彼らから何をもらおうとも、質問は一切禁止なんだ。ファンから電話をもらったのを憶えているよ。「なぜ来てくれないんだい?」ってね。
Q:同じ質問を数年前、ボビー・ロンディネリとジョー・リン・ターナーにもしたんです。彼らも当惑していました。憶えていない、と。彼らはイギリス・ツアーもしたと思い込んでいたんですよ。
CH:違うね。「凄いツアーだったぜ!」なんて電話をもらったことはあったけどね。「いや、僕とは関係ないよ。」って言ったよ。
再結成パープル
Q:パープルの再結成は、レインボーがホワイトスネイクに負けていたから仕掛けられたのだと思われますか?
CH:ある意味、それもあると思うね。潜在的にはね(笑)。でもメンバー全員のことを考えれば、再結成には絶好のタイミングだったと思うんだ。メンバーはソロ活動に行き詰っていたし、いい頃合いだったんだよ。コネチカットでミーティングを持った時、全員がやる気になったのが素晴らしかった。それは素晴らしかったんだけど、すぐに昔のしがらみが頭をもたげてくることになったけどね(笑)。
Q:再結成に興奮されたのは分かりますが、いつまで持つと思われましたか?また、果たしていいアイデアだと思われました?
CH:最初は素晴らしいことだと思ったよ。何年も続くだろう、と。メンバーが引退するまでやるんじゃないか、って。でも最初のアルバムを作ったあたりからもう綻び出したね。
Q:最初のアルバムの時からですか?
CH:ああ。ツアーでリッチーが道化役のようなことをやり始めて、メンバーを翻弄し始めてからおかしくなったんだ。
ジョー・リン・ターナー時代
Q:89年、あなたはイアン・ギランの代わりにジョン・マイルズを推薦しましたよね。他には候補はいませんでしたか?
CH:いや、いなかったんだ。メンバーは必死になって、ボーカリストを探していた。僕は昔からジョンの才能を買っていたからね。僕の地元ではいつも彼が活躍していたんだ。彼にとってもいい話だと思って、彼を薦めたんだ。彼は出世欲なんてない男だし。今でもそうだよ。それでバンドに刺激を与えてくれるだろうと思ったんだ。いいアイデアだと思ったよ。彼ならブラックモアのナンセンス・ワールドには引っ掛からないだろうから(笑)。彼ならすぐに荷物をまとめて、一晩で出て行ったかもしれないけどね。
Q:カル・スワンもオーディションを受けましたよね。私は‘タイラン’のローディーをやってたんです。さっき、パープル内でのエゴの話が出ましたが、タイランも同じような・・・
CH:(笑)
Q:なぜカルはだめだったのでしょうか?彼はぴったりだと思うんですが。声もイメージもパープルに合いますが。
CH:誰が決定したのか、分からないんだよ。彼は本当に良かったし、バンドにも合っていたと思う。でもどこでどうなったのか、僕は知らないんだ。なぜ彼が採用されなかったのか、僕はその協議に関わっていなかったんだよ。ただ「次は誰だ?」っていう感じで、ヴァーモントでのリハーサルの時点でジョーがリストに上がった。君の意見は正しいよ。カルならうまくはまっただろうね。彼なら、あんなバンドの状況の中でもある程度図太くやれただろうからね。
Q:そうですね。それに彼のルックスはちょっとイアンにも似ていましたし。
CH:それで思い出したんだけど、リッチーはやっぱりおかしな奴なんだ。カリフォルニアでレインボーのオーディションをした時のことだ。オーディションに参加するために、はるばる車を運転してきた奴がいたんだけど、そいつをつかまえてリッチーは、「追い出せ」って(笑)。「そいつを追い出せ。そいつのドラムスティックが気に入らないんだ。」って(笑)。
Q:ある意味、リッチーがあなたにした酷い仕打ちが本にはたくさん書かれていますが、彼のことを優しいともおっしゃってます。彼にはかなり寛大な心で接しておられたのではないですか?
CH:そりゃそうだよ!パープルのローディーとして働き出した頃には、リッチーには悩まされたよ。何杯かひっかけて話した時には、彼は僕が彼のことを嫌っていると思っていたらしい。でも僕は彼のことが好きだったんだ。彼は僕がギランの方を好んでいるかのように思ってしまったらしくって、僕はそれについてとことん話して関係を修復したよ。最初の頃は本当に悩まされた。モンスターみたいなギタリストだけど、何年も一緒に仕事したことは後悔していないよ。いい経験をさせてもらったと思っている。
イアンが復帰したスティーヴ・モーズ時代
Q:リッチーが本当にこれでパープルを脱退していく、これで最後だとなった日の空港で、どんな感情が湧き起こってきましたか?さっぱりしたか、悲しかったか?ほっとしたか、イラついたか?がっかりしたか?どれだったのでしょう?
CH:とても悲しかったよ。もう彼に会えないと思うとね。ほんとにまた会えるのかどうかさえ分からなかったから。実際に彼は「またね。さよなら。」とだけ言ったんだ。
Q:いざ、彼が飛行機の座席に座ったのが見えた時には、「この野郎、俺の時間を返せ。」という気になりませんでしたか?
CH:あの日、彼が目覚めた時には済まなかったという気になったと思うよ。もういつものおふざけをしても、誰も反応してくれなかっただろう。でも飛行機に乗った彼は思っただろうね。「よし!次の人生のスタートだ。」って。
Q:ジョー・サトリアーニはオファーを断るべきでしたよね。スティーヴ・モーズ以外には誰も考えられないです。
CH:ロジャーがいろいろな人と協議していたのは知っているんだ。誰とかは分からないけど。すぐにスティーヴに連絡が取られて、マネージメントも迅速に動いた。彼はオーストラリアからメキシコに飛んで来て、僕が空港で彼を拾った。彼はかなり疲れていたけど、リハーサルに直行したんだ。それなのに、彼は抜群のプレイをしたよ。彼にも驚いたけど、サトリアーニが参加したことも信じられなかったね。あれはミスだった。怖ろしかったよ。
Q:スティーヴは適材だったばかりでなく、性格もよかったですよね?ドン・エイリーと同じくらい。
CH:そうだね。いい奴だった。去年、僕がパープルの下を離れて以来、初めてオーランドまでパープルを観に行ったんだけど、素晴らしかった。ドンが僕を楽屋に通してくれてね。みんながベロベロになって行き交っていたけど、とてもいい夜だった。ブルース・ペインもいたね。素晴らしい夜だった。
一般的なこと
Q:あなたの本には、「トップ・オブ・ザ・ポップス」の初期のことが書かれています。あの番組はいつも毎週水曜にレコーディングされて、木曜に放送されていたと思うのですが、そうでしたよね?
CH:そうだったと思うよ。でも違ったこともあった。ごく初期には、すべてがマイミングだった。ボーカルもバックの演奏も流してね。でもそれはすぐに変わった。組合がうるさくなったからなんだ。僕たちが出演した時は、ヴァニティ・フェアかトビー・トゥワールと一緒だったと思う。彼らはテープを流そうとしたんだけど、生で歌わなきゃならなくなったんだ。メンバー全員がオリジナル・バージョン通りに演奏するなら、ベーシック・トラックを流す許可が下りるという、変な規則があったんだ。「トップ・オブ・ザ・ポップス・オーケストラ」というのがあったのを憶えてるかい?
Q:はい。
CH:ソロ・シンガーが出演する場合、あれにバックアップしてもらうんだけど、悲惨な結果になったものさ(笑)。ベーシック・トラックをかけたパターンで語り草になっている悲惨な事件が何度もあったんだ。バンドがステージに立ち、お茶の間の人たちはバックの演奏が聞こえている。でもバンドにはその音が聞こえていない、ということがね(笑)。
Q:当時のローディーと今との違いはどんな点でしょうか?
CH:君なら分かるだろうけど、当時のローディーはトラックの運転手もし、音響、照明、ステージ、すべてを設営した。今は各楽器ごとのテックになってるよね(笑)。テックであって、ローディーではない。もうローディーなんて呼べないよ!結構なこった(笑)。ケータリングの他に日に三度の食事付き、ツアー・バスに乗って移動、ホテルで休める。休みがあるって、どういうことだ?当時は、自分の休みを潰して、何百マイルもトラックを運転していったんだ。トラックやバスの運転手を雇えなかったからね。ここが大きな違いだね。もちろん今の方が給料も高い。僕は今でもローディー、テック、音響マンの募集メールのすべてに目を通すけど、給料は凄いよ。もちろんその他の違いと言えば、ツアー単位で雇われるってことかな。ツアーが終われば、契約はおしまいだ。
Q:そうですね。もはやリテイナー*は存在しませんね?
CH:ああ、存在しない。僕はラッキーだった方だよ。一年中パープルとレインボーで契約してもらえたんだから。3つの支払い形態があってね、「自宅待機」、「レコーディングとソングライティング」、そして「ツアー」だ。どれにも不満はなかったよ。
Q:ローディーとテックの話に戻りますが、最近、ローリング・ストーンズの昨年のツアー・ドキュメンタリーを観たんです。そうしたら、「ストリング・テック」というのがいたんですよ。
CH:ストリング・テックだって?
Q:ええ。すべてのギターの弦を張り替えるのが仕事です。キースやロニーの。彼らの個人テックですね。毎公演、弦を張り替えていましたよ。
CH:(笑)いいね!いいコンサートだろうな!
Q:普通に見ても、凄い仕事量です。キースとロニーは毎晩たくさんギターを使いますから。
CH:ぐったり疲れるだろうな(笑)。
Q:パープルの話に戻りますが、サッカーでは、イアン・ペイスはどこのチームが贔屓でしたっけ?
CH:彼はノッティンガム出身だから、ノッティンガム・フォレストじゃないかな?彼がレディングも応援しているかどうかは分からないな。あの近所に住んでいるんだけどね。でもノッティンガム・フォレストのサポーターは確かだよ。
Q:あなたは?
CH:あいにくサンダーランドなんだ。**
Q:ドンと気が合うでしょう。(ドン・エイリーもサンダーランドのサポーターである)
CH:ああ。ドンはいい奴だ。パープルに入って、しまったと思っているだろうな。僕はもうあの連中とは居たくないよ(笑)。
Q:あなたの本が出てから、リッチーから何か連絡はありましたか?
CH:いや、ないよ。彼と最後に会ったのは、本にも書いているけど、カリフォルニアにブラックモアズ・ナイトを観に行った時だ。あのコンサートは素晴らしかった。彼と離れてから始めてハグされたんだ。そんなこと長い人生で初めてのことだった。たぶん彼が主催したサッカーの試合で僕がゴールを決めて以来だよ。彼に会った時、本を書いているんだと伝えたんだ。彼は、「うー・・・・下半身のことは書いてくれるなよ。」と言った。それは大丈夫だった。だって、そんなことを僕に話してくれたことないからね(笑)。彼は僕に電話番号を教えてくれたから、何度かかけたけど出なかった。だから彼がオーランドの小さな劇場で公演をした時に会いに行こうとしたんだ。それでジム・マンガードに電話した。ジムは前日にはすごく好意的だったんだけど、当日、僕は誰にも会えなかったんだ。そういうことか、と感づいたよ。誰も僕を歓迎しないんだ、と。リッチーのマネージャーのキャロルも、リッチーもね。
Q:これで終了です。コリン、今日はどうもありがとうございました。
CH:どういたしまして。楽しかったよ。またね。
*・・・「リテイナー」とは、バンドがツアーをしていない時に週休で雇われるローディーのことである。他のバンドの仕事をしないことを誓約させられ、その間の生活は保証してもらえる。
**・・・サンダーランドは近年、プレミア・リーグの最下位に低迷している。