AL STEWART    

7th May 2016

 

作曲について

 

Q:昨日のステージでは、時々、一つのテーマを歌うために作曲するが、そこには他のテーマも入っているとおっしゃっておられました。私はあなたが書く詞はむしろテーマがはっきりしていると思っているのですが、どうしてそんな決め付けをされてきたのでしょう?

アル・スチュワート(以下AS):2つの例を挙げようか。2曲目は「Antarctica(南極大陸)」という曲だったね。それは、

 

Who knows what the powers may be 力とはどんなものか、知っている人はいるのだろうか
That cause a man to go それが男を突き動かすのだ
Mindless of the dangers 危険も顧みず
Out across the virgin snow ヴァージン・スノーに足を踏み入れるのだ

 

Seduced by this ambition その野望に誘惑されるのだ
I easily forget 僕は簡単に忘れてしまう
The hopeless quest of Shackleton シャクルトンを探しても無駄だということを
The dreamlike death of Scott スコットが死んだことが夢のようだ

 

僕は南極大陸のことを歌っているのは確かだけど、シャクルトンとスコットのことも言っているんだよ。

 

Q:なるほど。

AS:いや、違う。この歌は僕に冷たい態度をとった女のことを歌っているんだ。歌詞を心に思いながら聴いてみてくれるかい?

 

Q:はい、シャクルトン*は私のヒーローでもあるんです。

AS:さあ、始めて。南極に到達するために三人の男が挑んだんだ。全員、三度失敗した。三度目にはみんな死にかけた。

 

Q:特にエンデュランス号**の話は凄かったですね。

AS:そうなんだ!小さなボートを700マイルも漕いでいったんだよ。サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島までね。信じられないことだ。さて、もう一つの例は「Flying Sorcery」という曲だな。

 

You wrapped me up in a leather coat 君は僕の体を革のコートで包み
And you took me for a ride 一緒に飛び立った
We were drifting with the tail-wind 僕たちは追い風に急き立てられながら飛び続けた
When the runway came in sight すると、突然滑走路が見えてきたんだ
The clouds came up to gather us 雲が僕らの上に垂れ込めてきた
And the cockpit turned to white 操縦室は急に真っ白になった
When I looked the sky was empty 空を見上げると、そこには雲一つなかった
I suppose you never saw the landing-lights 着陸誘導灯は見なかったように思う

 

これは飛行機の歌だと思うかい?そうじゃなくて、ラヴソングなんだよ。これが君の質問に対する答えだと思うよ。

 

Q:そうですね。でも新たな質問です。あなたの史実に基づく曲は一体どれくらい誤解されているのでしょう?

AS:僕ははっきりとは書かないからね。いくつかはかなり史実どおりに書いているけどね。「Roads To Moscow」は1941年の「東部戦線」についての歌なんだ。グデリアン将軍とオレル***のことに触れている。分かってくれる人もいるけど、気づかない人もいる。おふざけソングだと思っている人もいる。僕自身は歴史的な出来事にかかった莫大な金のことを茶化すこともやるんだ。マジで捉えるよりも面白いからね。

 

Q:ほかの曲、例えば「The Last Day Of June 1941」のことも・・・・

AS:おぉ!あれは事実に基づいているんだ。「ザ・ナイト・オブ・ザ・ロング・ナイヴス」†

のことをね。

 

Q:サッカーの名選手のことですか?

AS:君はよく調べてるね!そう言われても仕方がないね。そう取れなくもないから。

 

Many years from now when his name’s recalled,  今から何年も前のこと、でも彼の名前を忘れる人はいない

Everyone will say, he should have passed the ball 誰もがあの時、ボールをパスすべきだったと言うだろう

 

サッカーの名選手のことだと思うよね。僕はピアノに座って、思いつくまま詞を書いたんだ。どんな曲になるかなんて分かりもしなかった。好きなサッカー選手のことを思い浮かべていただけなんだ。

 

(In the center of the field stands the favorite player) ピッチの中央に立つ憧れの名選手

 

でも書き始めると、何のスポーツのことか分からなくなってきたんだ。何とでもなる感じでね。例えばホッケーでもOKだった。「ボールをパスすべきだった」という下りからすればね。でもサッカー選手について書いているのかと気づいたんだ。そこからはすいすいと書き上げることができた。気づいたら、僕の前にはもう歌詞が書かれた紙があったよ。

 

Q:私もイギリス人なので、お訊きしますが、贔屓のチームはおありですか?

AS:ああ、デンヴァー・ブロンコスだ。今年、スーパーボウルで優勝したんだよ!もう30年来のファンさ。

 

Q:我々には双方にめでたい事がありましたね。私はレスターの生まれ育ちなんです。

AS:今年の成績は良かったよね。でも他にもめでたい事があったんだ。ちっぽけなチーム-僕が育ったボーンマスのチームだけど-これの成績が良かったんだよ。

 

Q:そうでしたね。

AS:僕はもうイギリスのサッカーチームには興味がなくて、ブロンコスを応援しているんだ。まさか、スーパーボウルで優勝するとはね。信じられなかったよ。

 

Q:作曲の話に戻りますが、あなたの初期の曲である「The Ballad Of Mary Foster」や「Old Compton Street Blues」や「Scandinavian Girl」などに出てくるのは、実在の人物だったのですか?

AS:すいぶん昔のことを言うね。思い出さなきゃな。「Mary Foster」も「Old Compton Street Blues」も実在の人のことじゃない。「Scandinavian Girl」は僕の昔の恋人のことだね。

 

Q:「Catherine Of Oregon」の詞は素晴らしい流れですよね。

AS:いや、もっと酷いものになる可能性があったんだ。僕は別の「Anne of Cleveland」††という曲のことに気を取られていたからね(笑)。

 

Q:あの曲も好きですよ。あなたはあの歌の中でロニー・ドネガンのことを歌っていますよね。スキッフル・グループで演奏していたことがあるのですか?

AS:スキッフルは演奏していたよ。でもバンドは組んでいなかった。まだ13歳かそこらの学生だったからね。「The Grand Coolee Dam」の歌詞を必死で憶えたよ。しょっちゅう歌ってた。(歌う)

♪Well, the world has seven wonders that the trav'lers always tell♪

練習しないといけないとなると、いつも「The Grand Coulee Dam」をやってたよ。6ヶ月かそこらはずっと取り組んでいたね。

 

Q:あの曲のベスト・バージョンは、ロニー・ドネガンが「The Six-Five・・・・

AS:スペシャル」に出た時のだ!

 

Q:そう、あの映画ですね!

AS:ああ。カメラがベーシストとドラマーを捉えている瞬間だ。まさにあの瞬間にベースとドラムが入ってくるんだ。僕はまだ子供だったから、どういう風にあんな演奏をするのか分からなかったけど、とても感銘を受けたね。どうやっているんだ?!ってね。(アルはその時を回顧するように、遠くに視線を送った)ピート・マレーとジョセフィン・ダグラスによるイントロくらいはできたけどね。

 

Q:あの映画は何回くらい観ましたか?

AS:数え切れないくらいさ(笑)。

キャリア

 

Q:あなたのキャリアについて質問させていただきたいのですが、昨夜、ストーンズの前座をやった時代のことを話されていましたね?

AS:うん。10月24日のレディング・タウン・ホールだね。1963年だったと思う。(ローリング・ストーンズのデータベースによれば、1963年12月27日との事である)その頃、僕はデイヴ・ラ・カッツ・アンド・ザ・Gメンというバンドにいたんだ。ストーンズの前座をやって、彼らとは楽屋が一緒だった。ブライアン・ジョーンズがあのグリーンカラーのグレッチを持っていて、楽屋でだべっている時に30分くらい爪弾いていたかな。とても素敵だった。彼らは2枚目のシングル「I Wanna Be Your Man」を出したばかりだったんだ(1963年11月1日リリース)。僕らは南岸地区のバンドで、プロモーターがギャラの安く済むバンドを探していたんだ。「おい、20ポンドやるから、やってみな。」って感じだったんだ。

 

Q:オーディエンスはどうでした?あなたたちの演奏はウケましたか?

AS:そう悪くはなかったね。僕らの後にはストーンズが出るんだからね!(笑)

 

Q:60年代のアメリカのフォーク・シーンについての曲が多いですよね。イギリスのことはあまり書かれていません。

AS:ああ、そうなんだ。衝撃を受けたんだよ。アメリカ人との共通点が多いことに気づいてね。サンディ・デニーがアメリカのシンガーに敵うくらい、バート・ヤンシュがアメリカのプレイヤーに敵うくらいの状況だった。リチャード・トンプソンやラルフ・マクテルといった凄いソングライターもいたんだけどね。そこで、だ!アメリカやカナダのミュージシャンを迎え入れたというわけさ。はっきりとした理由はないけどね。

 

Q:ビートルズの影響はありましたか?

AS:アメリカは広大なところだ。『Year Of The Cat』のリリース前にリンダ・ロンシュタッドたちとアメリカ横断ツアーをしたんだ。一つの町から次の町まで100マイル(160km)も離れているんだよ。アメリカ全土で有名になることなんて不可能だ。ブルース・スプリングスティーンが18,000人キャパのフィラデルフィアのフォーラムで公演した時に、僕を自宅に招いてくれたんだ。シアトルに立ち寄った時にプロモーターが僕に言った。「38人の客は痺れさせたね。」って(笑)。ちょうど彼がブレイクした頃だった。フィラデルフィアでは既に有名だったけど、西海岸ではまったく知られていなかった。そこでイギリスのフォーク・シーンとの違いが分かる。フェアポートは主要な数か所でしか公演しなかった。全国を回るなんてことはしなかったんだ。それで、やっぱりいろいろな所に行かなくちゃいけないなと思ったんだ。そして僕のマネージャーは、どこにいようとも最低3つのラジオ局には顔を出させた。その町に着くなり、やったことさ。そして夜にはそこで公演する。コンサート後にはまたラジオ局に立ち寄ったものさ。マネージャーは僕に言ったよ。「ここにはコンサートのために来たんだけど、正直言って、ステージで辞書を朗読したって構わないんだ。客なんて無視したっていい。でもラジオ局の人間は大事にしなきゃ、な。イギリスに戻って、新しいレコードを出してから、100以上のラジオ局を訪問するぞ。そうすりゃ、どこでも気持ち良くおまえのレコードをかけてくれるからな。」ってね。彼の言い分は正しかった。次のレコードを出した時、「Year Of The Cat」だ。ラジオ局はみんなこれをかけてくれた。僕の知り合いは誰もこういう方法を知らなかったけど、ラジオ局のディスク・ジョッキーはやるべきことを分かっていた。僕と同時代の仲間はこれをしなかったから、アメリカでブレイクできなかったんだ。やるべきだったね。

 

Q:レ・カズンズは、シャドウズたちが頭角を現したロックンロールの「2iズ・コーヒーバー」に相当するフォーク・シーンのメッカでしたよね。あそこが発祥でしたが、ロンドン界隈では他にフォーク・ミュージシャンが演奏できる所はあったのでしょうか?

AS:そう、カズンズがあったね。僕はバンジーズ・コーヒーバーで演奏したよ。ケンブリッジ・サーカスの向かい側にあった所だ(ロンドン、リッチフィールド通り27番地)。リッチモンドにはハンギング・ランプというのがあったし、他にもいくつかあったよ。でもカズンズでは、バートや後の大物が演奏していたね。

 

Q:当時のシーンはどんな感じだったのでしょうか?あなたは既に多くのお客に支持されていたのですか?

AS:僕はコンテストに出ることから始めたんだ。そして19歳の時にロンドンに出てきた。僕は結構おしゃべり好きでね、当時そこを経営していたフィルという人はオールナイトをやりたがらなかった。金曜は朝6時まで、土曜は朝7時までという夜通し営業なんだけど、19歳の僕はやってもいいよと言ったんだ。そういう時にはメイン・ゲストをずっと夜通し出演させなきゃならない。いろいろな人がギターを持って集まってきたよ。一人当たり3曲ずつ演奏してもらって、朝の4時頃に僕がステージに立った。その頃には誰も気にしちゃいなかった。当時は契約なんてなかった。僕のことなんて知られていなかったからね。週2ポンドのギャラとチーズとトマトのサンドイッチ食べ放題、コーヒー飲み放題という条件だったんだ(笑)。

レコーディングについて

 

Q:「ジ・エルフ・・・・

AS:ワォ!そんな昔のことかい?!1922年のことだよ!(笑)

 

Q:あれはブロードハースト・ガーデンにあったデッカのスタジオでレコーディングされたのですね?

AS:そうだよ。えっ、ちょっと待って。そうだったかな?・・・正直なところ、よく憶えていないな。マイク・リンダーがプロデュースしたんだ。

 

Q:実際に「マイク・リンダー・ディレクション」とクレジットされていますよ。

AS:あの時の彼はちょっと傲慢だったな(笑)。

 

Q:そうですか。B面は「Turn To Earth」でした。この選択はどなたが?なぜだったのですか?

AS:マイクだ。ポール・サミュエル・スミスとローズマリー・サイモンが書いた曲でね。彼がポール・サミュエル・スミスと友だちだったと思うんだ。

 

Q:私がお尋ねした訳は、あれにジミー・ペイジが参加していたからなんです。

AS:そう、参加していたね。あのB面曲では、彼は弾きまくってたね(笑)。

 

Q:あの頃、彼はヤードバーズに加入したてでしたよね。

AS:ああ。そういう繋がりがあったんだろうね。そこでマイクがヤードバーズをプロデュースさせろとねじ込んていたんだ。このあたりの政治力については僕は分からないけどね。でもさらに何かが進行していたはずだよ。あのセッションでは、僕がレッド・ツェッペリンのメンバーになりそうな気配だったもの。ジミーとはとてもうまくいったからね。彼のプレイはニール・クリスチャン&ザ・クルセイダーズで知っていたんだ。一般には知られていないけどね。それで彼も僕のセッションを気に入ってくれて、1時間くらい話し込んだよ。お互いのギターのチューニングなんかも教え合ったりしてね。僕は彼にバート・ヤンシュのことを教えたよ。彼は僕のことを意味ありげに見詰め、バンドを組もうと思っていると言ったんだ。ベーシストを探している、とね。振り返れば、「ベースなんて難し過ぎるよ」って思ったのを憶えているよ。で、彼に言ったんだ。「うまくいくといいね」って(笑)。

 

Q:彼がレッド・ツェッペリンを結成した頃のあなたのアルバム『Love Chronicles』についてもお聞きしたかったんです。

AS:そう、あれにもジミーは参加していたね。あのセッションは良かった。すべてのレコーディングがうまくいったからね。タイトル・トラックではリチャード・トンプソンとジミーがギターを弾いてくれた。18分間もの曲で、僕はもう汗だくになった。彼はプレイバックを聴いて、「オーケー。」だって(笑)。そんな具合で、ワンテイクだけだったんだ。2テイクやったかどうかは憶えてないな。とにかく早く終わったんだ。彼はローディーと一緒にやって来てね、とても体格のいい奴だった。彼がジミーのロールスロイスを運転してきた(衝撃的だったよ)。そして彼がギター・ケースも運んできた。セッションの準備が整ったところで、僕はジミーにお茶でもどう?と訊いたんだ。すると彼は「いいサウンドだね。」と言ってくれた。それで僕は振り返って、その巨漢のローディーに「二人にお茶を入れてくれないか?」と言ったんだ。彼はしばらく僕を見詰めてから「オーケー。」と言ったんだ。それがピーター・グラントだったんだよ(笑)。知らなかったんだ。ピーターはかなりの堅物だって評判だったらしいんだけど、僕は無謀にも彼にお茶を入れさせたってわけさ。いい武勇伝だろ?(笑)。僕がお茶を飲みたかったわけじゃなくて、ジミーが飲みたいかなって気を遣ったんだけどね。

 

Q:「The News From Spain」ですが、リック・ウェイクマンとはどうやって一緒にやることになったのですか?

AS:ジョン・アンソニーがプロデュースしたんだけど、彼はそれまでにリックといくつかやっていたんだ。リックはちょうどデヴィッド・ボウイの「Life On Mars」でプレイした時期だった。トライデント・スタジオをひっきりなしに出入りしていた頃さ。当時はもうイエスにはいなかったと思うね。

「フォレスト・ガンプのチョコレート箱」的質問

Q:カッツのことについてもお聞きしたいのですが。(アルはマーク・マッシーソとこのコンサートを共同開催した)。あれほどの才能を持っている人は稀ですよね。

AS:本人に言ってやってよ。喜ぶよ。

 

Q:彼にできないことなどないですよね?

AS:ギターが弾けないんだ!(笑)。弾くには弾くんだが、上手くない。

 

Q:テクノロジーが昨日の彼を補っていましたね。

AS:どういうこと?

 

Q:「Fever」の終盤で、彼はバッキング・トラックを消しに行きましたよね。台から機械が落ちました。

AS:なるほど。彼がああいう風にやっていくなら、自分の曲をやるべきだね。

 

Q:あなたがた二人でどのようにあなたの曲のアレンジをしていくのですか?

AS:面白いよ。僕はカッツともやるし、他のいろいろな人ともやっている。柔軟にやっているんだ。ソロも弾ける。フォーク・クラブで鍛えられてきたからね。デイヴ・ナックマノフというギタリストとも一緒にやっている。ウィングスにいたローレンス・ジュバーとも時々やる。ピーター・ホワイトとも。アンブロージアのようなバンドとも望まれれば一緒にやる。いろいろなギタリストとやってきたんだ。だからカッツとやるのは、新鮮さを求めてのことだと思う。彼はマルチ・プレイヤーだから。(カッツはアルの背後に座っていて、アルが彼のことを褒めると照れ臭がった)

 

マーク・マッシーソ(以下MM):どうもありがとう!ここに座っていいかな?(カッツがインタビューに加わった)

 

Q:さっきアルに言ったのですが、昨夜は「Fever」の終盤でテクノロジーに助けられましたね。

MM:ああ、iPhoneが台から落ちたんだ。ポーズボタンはとても小さくて、何とか押そうとしたんだけど、次の曲に移らなきゃならないから、もうコードを抜いてやったんだ。

 

Q:次の曲というと・・・

MM:「Europa」だよ。

AS:あそこで自分の曲をやればよかったのに。(全員爆笑)

MM:特典になったのにね。

 

Q:第25回グラストンベリー・フェスティバルに出た時は、どう感じましたか?

AS:フェスの中盤に出演したんだよね。だから特に何も思わなかった。雨が降っていたから、そこかしこがブルーシートで覆われていて、至る所が水溜まりになっていた。ステージの僕には雨はかからなかったけど、ギターが濡れないか、そればかりに気をとられていたんだ。あの天候じゃ、ステージどころじゃなかったよ。

 

Q:アールズ・コートの近くにあるトルバドールで演奏したことはありますか?

AS:うん。何度もやっているよ。昔からフォークをやってた連中が経営しているんだ。レッド・サリヴァンとマーティン・ウィンザーという人たちさ。彼らは若い奴らにそこを譲ろうとしないんだが、それにはたくさんの理由があってね。50年代からのフォーク愛好者-その多くは共産党員なんだが-が集まっているということ、彼らは伝統主義者だから、一旦ギターを手に取ってステージに出ようものなら、けなされまくるか、ポップスの花形扱いか、どちらかになるよ。彼らは新しいものには見向きもしないけど、レッドとマーティンはそんな彼らのことも温かく見守っているんだ。それで僕も招いてくれて演奏させてくれる。すると、とてもいいオーディエンスだと分かるんだ。面白いことがあったんだ。全寮制の学校に行くとね、「スチュワート!何だ、それは!酷いな!」って言われるんだ(笑)。ギターを弾いて、いろいろ演奏するんだけど、まったく分かってくれないから、もうその場を去るしかなかった。学校を辞めた時に安息の場所を見つけたんだよ。音楽を始めて分かったけど、それまでとは真反対だった。「何てこった!」だよ(笑)。18歳になるまでには悩んだよ。周りの人がみんな僕のことをなじったからね。何も悪いことをしていないのに!僕には音楽だけしか残っていなかった。当時のイギリスは急進的で、僕には馴染めないものだった。八方塞がりだったんだよ(笑)。

 

Q:あなたがコレクションされているワインで一番貴重なものは何ですか?

AS:あー・・・貴重なのは何本か持っているけど、だからといって高価というわけではないんだ。醸造所のことで言えば、最も小規模なのはセント・エミリオンにあるグランズ・クラッセだね。一年に3箱しか作られない「コス・セント・マーティン」という銘柄があるんだけど、誰も知らないだろうね。僕は05年製のと09年製のを持っているけど、どちらも300本限定のナンバー1なんだ。そういう意味でもレアだろ?でもこれは特別価値があるというわけではないんだ。セント・エミリオンのちっぽけな所で作っているというだけでね。誰も知らないけど、僕は気に入っているんだ。

 

Q:勉強不足で申し訳ないのですが、1箱に何本入っているのですか?

AS:12本だよ。

 

Q:もし私が1箱しか持っていなければ、飲むのをためらうかもしれません。

AS:いや、それはないよ。1箱しか買えないというわけじゃないからね。無名だけど、とてもいいワインなんだ。僕はボルドー・ワインの主格評議員だから、分かるんだよ。君が知ってたかどうかは分からないけどね。

 

Q:知りませんでした。

AS:そうだろうね。僕は一つの点についてとても厳しく判断するんだ。日々の生活のためにワインを飲むんだけど、最終的にはこれが趣味となり、生き甲斐になるんだ。ワインが仕事になっていくんだ。当初は思いも寄らなかったことだけどね。君は訊いてきていないけど、「今まで飲んだワインで最も貴重だったのは何ですか?」と訊いてほしいね。その答えは、世界に6本しかないワインだ。僕はもっとあると思うけどね。僕はそれの200周年記念ボトルを飲んだんだ。1811年物のシャトー・ディケムで、オークションに出品されて10万6千ドルで落札されたものだ。もちろん僕が落札したものじゃないよ。テスティングに招かれたんだけど、ロサンゼルスからトロントまで飛んで行かなきゃならなかったよ。このためだけにね。

 

Q:10万6千ドルですか。

AS:ああ。それ以来、これは見たことないよ。今や5本しか存在しない計算だね(笑)。

 

Q:サー・リチャード・グレンヴィル、エイミー・ジョンソン、サー・ジョン・フィッシャー、ヘンリー8世、エルヴィス、シャクルトン、スコット、アーネスト・ロームなど。彼らの時代から100年余りが過ぎてしますが、このうちから曲の題材にしたい人はいますか?

AS:面白い質問だね。僕には書けないな。僕には信条があってね、その出来事から少なくとも30年以上経ってからでないと取り上げない、ということなんだ。その間に評価が変わってしまうことがあるからね。よく分かる例を挙げようか。ドゥワイト・アイゼンハワーについての一般の認識といえば、僕が子供の頃には何百通りもあったんだ。だいたいのところは、政治が分からない、ソビエトの動向が分からない、ゴルフばっかりやってる愚鈍な人だという評価だった。でもその後、彼が論理的な人物であることが分かったんだ。当時の僕は信じられなかったけどね。彼の大統領任期の間には、大衆は彼のことをまったく評価していなかった。歴代大統領の手腕のランキングを考えた場合、当時の彼はもはや圏外に放り出されてしまっていた。それが今ではトップ10内に入る。もし60年代に彼について曲を書いていたとしたら、誤った評価のままで書いていただろう。だから僕は今、起きている出来事を題材にすることはしないんだ。「すべての悪意は共産主義の中国†††が発端だ」ということも頭に置いて書かないといけない。君がバリー・マクガイアならね。僕はそうなりたくないけど(笑)。他人の行動を理解する上では、法的な制限というものもあるからね。突然機密文書が公開されて、歴史家がその時点である人物に評価を下す。期待どおりの人物だったのか、それとも期待を裏切る人物だったのか。21世紀になってのこの16年間でもずっと変わらない評価をされて尊敬されている詩人ルパート・ブルックのことを思い出してほしい。エドワード7世時代の詩人なんて時代遅れも甚だしいんだけど、彼らは短い言葉に裏の意味を込めて表現しようとした。「君は僕の人生を明るく照らしてくれた。だから僕は君のことをとても愛しているよ。」ということを、あの時代の詩人は「我を照らせ!愛こそ我なれば、汝にも与え給う」と表現する。文法的には逆さまになっているよね。酷い表現だろう?こんなものが後世まで生き残るとは思えないけど、当時はこれが高く評価されたんだよ。だから100年以上経った今でも重要な考察対象となっているんだ。ビートルズもそうやって生き続けてほしいね。僕が学校を辞めた60年代当時では世界最高のバンドはビートルズで、最も売れた本は「指輪物語」だった。あれから40年後の現代、チャートの1位になったアルバムは、ビートルズの『1』であり、最高興行収入を上げた映画は『指輪物語』だった。こんなことは以前にはなかったことだよ。1925年に遡っても、ルイ・アームストロングくらいのものだろう。彼もまだ駆け出しの頃だ。僕の世代にとって、音楽や文学には、想像もしなかったくらい生き残っていく存在があるんだよ。

 

Q:スチュワートさん、とても興味深いお話でした。今日はどうもありがとうございました。

AS:ありがとう。

 

 

 

*・・・サー・アーネスト・ヘンリー・シャクルトンは、イギリスから三度南極へ遠征した探検家である。

**・・・シャクルトンの船の名称

***・・・ハインツ・グデリアンは第二次世界大戦時のドイツの将校。オレルはロシアの都市名。

†・・・1934年6月30日~7月2日まで実施されたナチス・ドイツのユダヤ人追放。ナチス政権は、裁判にかけない政治的暴挙的処刑を実行した。

††・・・ヘンリー8世の妻のことで、キャサリン・オブ・アラゴン妃(ヘンリー8世の最初の妻)、アン・オブ・クレーヴズ妃(ヘンリー8世の4番目の妻)の両方に言及している。

†††・・・ジャガー&エヴァンス作の「明日なき世界」の歌詞にある